十訓抄 第六 忠直を存ずべき事 ====== 6の28 粟田左大臣在衡は才学あながちに人にすぐれたることはなけれども・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 粟田左大臣在衡((藤原在衡))は、才学あながちに人にすぐれたることはなけれども、御門の問ひ給ふほどのことをば、必ず明らかに申されけり。 内へ参る道に、車に文一巻を持ちて見られけり。問はせ給ふこと、今日見るところの文のことなり。これによりて、御門、深く才学あるよしを思しめしけり。 また、朝夕の恪勤、余人にすぐれたり。風雨、おぼろけならぬ日ありけり。左衛門陣の吉上いはく、「たとひ在衡なりとも、今日は参りがたし」と。言葉いまだ終はらざるに、在衡((「在衡」は底本「マサヒラ」。諸本により訂正。))、蓑を着、深沓を履きて参られたりけり。時の、感じののしりけり。 この人は若くより、鞍馬を信じ奉りて、参られけり。文章生の時、かの寺に参詣して、正面の東の間にして礼をなすあひだ、十三・四歳の童、かたはらに来て、同じく拝みを参らす。七反ばかりと思ひけれども、「この小童の拝み終らざらむさきにし果てたらむ、人目悪(わる)かりなん」と思ひて、心ならず礼を参らするほどに、三千三百三十三反に満つ時、この童失せぬ。 在衡、奇異の思ひをなしながら、苦しきままに、いささかうちまどろみたるほどに、ありつる童、天童のごとく装束して、御帳の内より出で来ていはく、「官は右大臣、歳((「歳」は底本「或」。諸本により訂正。))は七十二、云々」。その昇進、心のごとし。 左大臣、七十三の年、かの寺に詣でて、申していはく、「往日、『右大臣、七十二』と示現を蒙りしに、今すでにかくのごとし」と。毘沙門、また夢の内にのたまはく、「官は右大臣までありしかども、奉公、人にすぐるるによりて左にいたる。命は悪しく見たりけり。七十七なり」と。はたして、この年失せ給ひにけり。 冥顕につきて、忠心浅からざるゆゑに、その家及ばずといへども、たちまちにめでたき身とぞなりにける。その後、鞍馬の正面の東の間を、「進士の間」と名付けたるとぞ。 昔、明王、徳主の善政を行ひ給ふ御代には、今競ひ来る夭災なれども、末通ることなかりき。「妖は徳に勝たず」、「仁は百禍を除く」などいへり。仏天、よく信力を感じ給ふゆゑなり。 橘広相が書ける、   殷宗懿徳升耳之災自銷   宗景善言守心之妖俄変 ===== 翻刻 ===== 卅一粟田左大臣在衡ハ、才学強ニ人ニ勝レタル事ハナ ケレトモ、帝之問給程ノ事ヲハ、必明ニ申サレケリ、 内ヘ参ル道ニ車文一巻ヲ持テミラレケリ、問 セ給フ事今日ミル所ノ文ノ事也、是ニヨリテ 帝深ク才学アルヨシヲ思食ケリ、亦アサユフ/k83 ノ恪勤、余人ニ勝タリ、風雨オホロケナラヌ日ア リケリ、左衛門陣ノ吉上云ク、タトヒ在衡ナリト モ今日ハ参カタシト、コトハイマタ不終ニ、マサヒラ 蓑ヲキ深沓ヲハキテ参ラレタリケリ、時ノ 人感シノノシリケリ、此人ハ若ヨリ鞍馬ヲ信シ 奉テ参ラレケリ、文章生ノ時彼寺ニ参詣 シテ、正面ノ東ノ間ニシテ礼ヲ成ス間、十三四才ノ 童傍ニ来テ、同クオカミヲマイラス、七反ハカリト 思ヒケレトモ、此小童ノオカミヲハラサラムサキニ シハテタラム、人目ワルカリナント思テ、心ナラス礼 ヲマイラスル程ニ、三千三百三十三反ニミツ時此/k84 童ウセヌ、在衡奇異ノ思ヲナシナカラ苦シキママニ聊打マトロ ミタル程ニ、アリツル童、天童ノ如ク装束シテ、御帳之内ヨリ 出来テ云、官ハ右大臣或ハ七十二云々其昇進心ノ如シ左大 臣七十三ノ年、彼寺ニ詣テ申テ云、往日右大臣七十二ト示 現ヲ蒙シニ、今既如此ト、毘沙門又夢内ニノ給ク、官ハ右大 臣マテ有シカトモ、奉公人ニ勝ニヨリテ左ニイタル、命ハアシ ク見タリケリ、七十七也ト、ハタシテ此年失セ給ニケリ、冥 顕ニ付テ忠心浅カラサル故ニ、其家オヨハストイヘトモ、忽 ニ目出度身トソ成ニケル、其後鞍馬ノ正面ノ東ノ間ヲ 進士ノ間ト名ツケタルトソ、昔明王徳主ノ善政ヲ行ヒ 給フ御代ニハ、今競来ル夭災ナレトモ末トヲルコトナカリキ、/k85 妖ハ徳ニカタス、仁ハ百禍ヲ除クナト云リ、仏天能信力ヲ 感シ給フ故也、橘広相カ書ケル 殷宗懿徳升耳之災自銷、 宗景善言守心之妖俄変、/k86