成尋阿闍梨母集 ====== 一巻(8) 備前よりとて文持て来たる・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 「備前より」とて、文(ふみ)持て来たる。いとおぼつかなく思ゆるに、急ぎ見れば、「今日なむ、筑紫の船に乗りぬる」とあり。 日ごろ、風の音も荒らかにすれば、「いかが」とのみ、耳立てて聞かれつるに、「むげに遠ざかりておはしぬるにこそ」と、いとど上(うは)の空目(そらめ)せられて、めづらしけなき涙こぼれまさるにも、   わが袖にかかる涙をとどめおきて船はのどかに漕ぎや行くらむ とぞ、思ひやらるる。   あひ見むと思ふ心は深けれどわれや泣く泣く待たずなりなむ と思ふ思ふ、端(はし)の方み出だしたれば、桜、いみじく咲きたれば、岩倉の桜、思ひやられて、思えし限り言ひやられし。   山桜思ひこそやれこのもとに散り散りになる春は憂けれど 返し、   山桜散り散りになるあはれなり残れる枝の頼みなければ 岩倉より訪るる人もなきに、いとど残りはつかに、絶えぬる心地して、   奥山にすみおきたりしかひもなくまつの煙の跡ぞ絶えたる ===== 翻刻 ===== ひ前よりとてふみもてきたるいとおほ つかなくおほゆるにいそき見れはけふなむ つくしのふねにのりぬるとあり日ころ 風のおともあららかにすれはいかかとの/s18r みみみたててきかれつるにむけにとをさ かりておはしぬるにこそといととうは のそらめせられてめつらしけなき なみたこほれまさるにも わかそてにかかるなみたをととめおきて ふねはのとかにこきやゆくらん とそおもひやらるる あひみんとおもふこころはふかけれと 我やなくなくまたすなりなん とおもふおもふはしのかたみいたしたれは/s18l 桜いみしくさきたれはいはくらのさくら おもひやられておほえしかきりいひや られし 山さくらおもひこそやれこのもとに ちりちりになるはるはうけれと かへし 山さくらちりちりになるあはれなり のこれるえたのたのみなけれは いはくらよりおとつるる人もなきにいとと のこりはつかにたえぬる心地して/s19r おくやまにすみおきたりしかひもなく まつのけふりのあとそたえたる/s19l