[[index.html|唐鏡]] 第二 周の始めより秦にいたる
====== 6 周 穆王 ======
===== 校訂本文 =====
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第五の主をば穆王(ぼくわう)と申しき。昭王の御子なり。御年五十にて位に即き給ふ
八駿の駒を得給へり。その名をば、赤驥(せきき)・盗驪(たうり)・白犧(はくぎ)・渠黄(きよくわう)・華騮(くわりう)・緑駬(りようび)・踰輪(ゆりん)((「踰」は底本、馬偏に愈か。))・山子(さんし)とぞいへりける。この馬に乗りて、天下をあまねく巡り歩(あり)き給ひて、久しく帰り給はねば、国の政(まつりごと)をも忘れさせ給ふほどに、徐偃王(じよえんわう)といふ人、謀叛をおこさむとす。造父といふ者、舎人(とねり)のごとくにて王に付き奉りてありけるが、このことを聞き付けて、しづめてけり。
十七年に崑崙山にいたりて西王母と宴(えん)し給ふ。
一つの説には釈迦仏説法の時、諸国の大王のうちにて、穆王霊山へ参り給へりき。この八駿に乗りて、多くの雲霞をしのがせ給ひけるにや。
王、邴(へい)といふ所にして、井公と博奕し給ふ。三日にして決せられぬ。負けて賽し((底本「賽」に「カヘリモウシ」と読み仮名))給ふ。
双六は天竺より出たり。涅槃経には波羅賽戯(はらそげ)と名付けられたるにや。五十二((底本「二」に「三イ」と異本注記。))壬申の年、二月十五日仏入滅し給ふ。御年七十九。これは諸々あまた侍るにや。
この君は在位五十五年、御年百五歳なり。
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===== 翻刻 =====
第五の主をは穆(ボク)王と申き昭王の御子也御年五十にて位
に即給八駿(シユン)の駒を得たまへり其名をは赤驥(セキキ)盗驪(トウリ)白犧(ハクキ)
渠黄(キヨクワウ)華騮(クワリウ)緑駬(リヨウビ)〓輪(ユリン)山子(サンシ)とそいへりけるこの馬にのりて
天下をあまねくめくりありき給てひさしくかへり給はねは
国の政をもわすれさせ給ほとに徐偃(シヨエン)王といふひと謀叛をお/s37r・m64
こさむとす造父といふもの舎人のことくにて王につき奉り
てありけるかこの事を聞つけてしつめてけり十七年に
崑崙(コンロン)山にいたりて西王母と宴(ヱンシ)給一の説には釈(シヤ)迦仏説法
の時諸国の大王のうちにて穆王霊山へまいり給へり
き此八駿にのりておほくの雲霞をしのかせ給けるにや王
邴(ヘイ)といふところにして井公と博奕し給三日にして決
せられぬ負て賽(カヘリモウシ)し給双(スク)六は天竺より出たり涅槃(ネハン)経
には波羅賽戯(ソケ)となつけられたるにや五十二(三イ)壬申のとし
二月十五日仏入滅し給御年七十九これは諸々あまた侍
にやこの君は在位五十五年御年百五歳也/s37l・m65
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