[[index.html|唐鏡]] 第六 魏蜀呉より余晋恭帝にいたる ====== 9 西晋 孝恵帝(1 即位・八王の乱) ====== ===== 校訂本文 ===== [[m_karakagami6-08|<>]] 次は孝恵帝((恵帝・司馬衷))と申す。諱(いみな)は衷、字は正度。武帝((司馬炎))第二の御子なり。位に即き給ひて改元、永熙とす。妃賈氏((賈南風))を立てて皇后とす。太傅(たいふ)楊駿((「楊駿」は底本「陽駿」。))政(まつりごと)をとる。洛陽に興聖寺を造りて、百僧を供養せらる。 永平元年春三月に、賈后、揚駿を誅して、皇太后((楊芷))を金墉城(きんようぜい)に移す。太后、憂哀に堪へずして、幽宮に失せ給ひぬ。 五年夏四月に、彗星西方に見ゆ。冬十月に武庫に火災ありて、累代の宝物、悉(ふつく)に焼けぬ。孔子の足駄(あしだ)・漢高祖((劉邦))の斬蛇の剣・王莽が頭、この時焼けにけり。漢高祖の剣は、東をさして飛びて出でけりとも申せり。 九年、趙王倫、兵を率ゐて宮に入りて、賈后((賈南風))を廃す。后驚きて、「兵何ぞ入る」とのたまふ。斉王冏(けい)((司馬冏。底本表記「冂」。))答へて、「詔ありて后を捕らふ」と言ふ。「詔はわれより出づべし。誰(たれ)が詔ぞ」とのたまふ。趙王倫、つひに金屑酒を后に奉りて殺しつ。すなはち趙王倫、相国となる。 永康元年三月に血降ることありき。 永寧元年春正月に、趙王倫((司馬倫))、帝の位を奪ひて、帝をば金墉城に移し奉る。 三月に斉王冏ら、兵を起こして趙王倫を擒つ。即日に帝は宮へ還り給ふ。趙王倫、金屑苦酒を飲まするに、深く慚(は)ぢて、巾にて面を覆ひて、「孫秀、われをあやまち、われをはかつ」とぞ申しける。 兵興こりて六十余日戦ひて、殺害するところ十万人に及べり。これに与(くみ)しつる悪党ども、悉(ふつく)に誅せられぬ。 この御時より、夷狄の中国に覇王と称して偽位する者、おのおの十六あり。十六国とはこれなり。五凉・四燕・三秦・二趙・一夏・一蜀なり。魏・蜀・呉とて、三国の並び立ちしをこそ、あさましき乱世と申し侍りしに、十六国までおのおの王と称するは、申しはかりなし。 [[m_karakagami6-08|<>]] ===== 翻刻 ===== 次ハ孝恵帝ト申ス諱ハ衷字正度武帝第二ノ御子也位ニ即 給テ改元永熙トス妃賈氏ヲ立テ皇后トス太傅陽駿政ヲトル洛陽ニ 興聖寺ヲ造テ百僧ヲ供養セラル永平元年春三月ニ賈后 揚駿ヲ誅シテ皇太后ヲ金墉城(キンヨウセイ)ニウツス太后憂哀ニタヘスシテ幽 宮ニウセ給ヌ 五年夏四月ニ彗星西方ニ見冬十月ニ武庫ニ 火災アリテ累代ノ宝物悉ニヤケヌ孔子ノアシタ漢高祖ノ斬 蛇ノ剱王莽カ頭此時焼ニケリ漢高祖ノ剱ハ東ヲサシテ飛テ出ケリ トモ申セリ九年趙王倫兵ヲ率テ宮ニ入テ賈后ヲ廃后驚テ兵何ソ/s161l・m285 https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100182414/161?ln=ja 入トノ給斉王冂(ケイ)答テ詔アリテ后ヲトラフト云詔ハ我ヨリイツヘシタレカ 詔ソトノ給趙王倫遂ニ金屑酒ヲ后ニ奉テコロシツ則趙王倫相 国トナル 永康元年三月ニ血フル事アリキ永寧元年春 正月ニ趙王倫帝ノ位ヲ奪テ帝ヲハ金墉城ニ移奉ル三月ニ斉王冂 等兵ヲ起シテ趙王倫ヲ擒ツ即日ニ帝ハ宮ヘ還給趙王倫金屑(セツ)苦(コ) 酒ヲノマスルニ深慚テ巾ニテ面ヲ覆テ孫秀我ヲアヤマチ我ヲハカツトソ申ケル 兵興テ六十餘日戦テ殺害スル所十万人ニ及ヘリコレニクミシツル悪 党共悉ニ誅セラレヌ此御時ヨリ夷狄ノ中国ニ覇王ト称シテ偽位スル者 各十六アリ十六国トハ是也五凉四燕三秦二趙一夏一 蜀也魏蜀呉トテ三国ノ並タチシヲコソアサマシキ乱世ト申侍シニ/s162r・m286 十六国マテ各王ト称スルハ申計ナシ/s162l・m287 https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100182414/162?ln=ja