蒙求和歌 ====== 第2第3話(23) 漆室憂葵 葵 ====== ===== 校訂本文 ===== ** 漆室憂葵 葵 ** 魯の漆室のむすめは、時を過ぐるまで、男にも見えざりけり。 夕べの空の心細きに、柱に寄りかかりて、嘯(うそぶき)立てりけるを、隣の婦(をんな)、「あやし」と思ひて、「何事に嘯き悲しぞ。人の恋ひしきか」と問ふに、「わが魯の君の老ひ衰へて((底本「ヲヒヲト□□テ」。□は虫損。書陵部本(桂宮本)により補う。))、太子のいとけなきことを愁ふるなり」と答へけり。 隣の婦がいはく、「それは大夫の憂へなり。なんぢがことに及ばず」と言ふ。女いはく、「しかはあらず。昔、世の治まらざりし時、晋の客、わが家に宿りて、馬を園(その)の内に繋ぎしに、馬離れて、葵を踏み枯らしき。われ、年を経るまで、葵に乏(とも)し。わが兄(このかみ)、隣の女の逃ぐるを追ふ道にして、水に溺れて死ににき。わが身ををふるまでに、兄(このかみ)なし。みな、この世の静かならざるゆゑなり。われ聞く、『河、九里を浸(うるほ)す((底本、「九里ヲニ」。衍字とみて削除))。漸洳((底本「漸」の右に「セズ」、左に「ウルヲフオト」とある。))たること三百歩』、今、魯の君、老い衰へ給ひて、太子、まだいとけなくおはす。国乱れて、君臣・父子、その辱(はぢ)をかぶらむに、婦人一人逃るべきにあらず」と答へけり。   いかにしてのどけき御代にあふひ草そのかみ山を思ひ知るにも ===== 翻刻 ===== 漆室憂葵 葵 魯の漆室のむすめはときをすくるまてをとこにもみえさり けりゆうへのそらの心ほそきに柱によりかかりてうそふき たてりけるを隣の婦(をんな)あやしと思てなに事にうそふきかな/d1-16r しむそ人の恋しきかと問に我か魯の君のをひをと□□て太子の いとけなきことをうれうるなりとこたへけり隣の婦か云く それは大夫のうれへなり汝かことにをよはすと云女云くしかは あらす昔世のをさまらさりし時晋の客我家に宿りて馬をそのの うちにつなきしに馬はなれて葵をふみからしき我れとしをふる まてあふひにともし我かこのかみ隣の女のにくるをおふみちに して水にをほれてしににき我身ををふるまてにこのかみ なし皆此世のしつかならさる故也我聞河浸(うるをす)に九里を漸(せす/うるをふこと) 洳しよたること三百歩今魯の君老ひをとろへ給て太子またいとけ なくをはす国乱て君臣父子その辱ちをかふらむに婦人ひと りのかるへきにあらすとこたへけり いかにしてのとけきみよにあふひくさそのかみ山ををもひしるにも/d1-16l