撰集抄 ====== 巻3第4話(20) 観釈聖(歌) ====== ===== 校訂本文 ===== 昔、観釈聖とて、世をのがれる人侍る。なま君達にて、殿上の交はりなんし給ひて、遠江守になりなんどして侍りけるが、いかなることか侍りけん、にはかに家を出て、髻(もとどり)切りて、頭陀(づだ)をなんし侍りける。 もとより、御子はいませざりければ、知る所などをば、さながら北の方に譲り給ひて、出でられにしのちには、またもかの家へはさし入り給はずとかや。ただ、人の家に入り来て、四方山(よもやま)のそぞろごと、昔今の物語りをして、日を送るわざにて、はかばかしく勤めなんどもなかりける人にて、面白き物語をなんし給ひければ、大臣家などにつねは召されて、なにとなく世をなん過ぎられにけり。着物は何をも嫌はず着給ひける。足も手も、洗ひもあげずいまそかりけり。 ある時、富家入道殿((藤原忠実))の、中将にていまそかりけるころ、二条になん住みておはしましける時、かの観釈聖、参り給ひて、「今日身まかり侍るべし。『いかならん山中にても、這ひ隠れ侍らん』と思ひ侍り((底本「給ひ」。諸本により訂正。))つれども、『往生をなん遂げ侍るべきにて侍れば、誰々にも縁を広く結びおかん』と思ひ給ふれども、『この殿のかたはらにて』と思ひて侍り。こちなくや侍らん」とのたまはせければ、殿、をかしがらせ給ひて、「さらなり。何かは」と仰せのありければ、「嬉しきことにこそ」とて、御所の東の山ぎはの、滝の落ちて、まことにおもしろき所に、石の上に西向になん手を合はせていまそかりけるが、げにそのままにて、やかて息絶えてけり。紫の雲、上に覆ひ、妙(たへ)なる香、御所に満ちてぞ侍りける。 人々集りて、拝みけるなり。その形体をうつし留めて、同じ石にすゑ給へりける、今に侍り。帷(かたびら)の肩の落ちたるを着て、薦(こも)といふものを後ろに引きかけ給へる姿なり。ころは十二月三日とぞ。ことにあはれに侍るかな。 多くの財宝をみな取り捨て、そこばくの田園をさながらもて離れて、賤しきさまにやつれ給ひて、知る知らぬ家どもに入り居て、袖を広げ給ひけん。さすが人も岩木(いはき)ならねば、見る目もさらにかき暗されてこそ侍りけめ。さそらへ出でてのちは、またも旧里に帰り給はざりけるも、かしこくぞ侍る、また、世を捨てても、住みなれし所、知れるさかひなどにては、袂を広ぐるわざは、いかにもありがたかむめるにと、それさへ澄みて思え侍り。 なにとなき物語にて、そのこととなく日を送り給ひけんは、外のありさまは、ものさはがしき に似たれども、内の心は澄みわたりて侍りけり。「大隠は朝市にあり」といふ。これならんと思えて侍り。 ===== 翻刻 ===== かな昔観釈聖とて世を遁れる人侍るなま君達にて 殿上の交りなんし給て遠江守に成なんとして侍 けるかいかなる事か侍けん俄に家を出て本とり切て/k68r 頭陀をなんし侍りける自元御子はいませさりけれは 知所なとをはさなから北方に譲給て出られにし後 には又も彼家へは指入給はすとかやたた人の家に入 きてよも山のそそろ事昔今の物語をして日を送 るわさにてはかはかしく勤なんともなかりける人にて 面白き物語をなんし給ひけれは大臣家なとに常は めされて無何世をなん過られにけりき物は何をも きらはすき給ひける足も手もあらいもあけす いまそかりけり或時冨家入道殿の中将にていまそ かりけるころ二条になん住ておはしましける時/k68l かの観尺聖参り給て今日身まかり侍るへしい かならん山中にてもはい隠れ侍らんと思ひ給ひつれ とも往生をなん遂侍るへきにて侍れは誰々 にも縁を広く結ひおかんと思ひ給ふれ共此殿の方 はらにてと思て侍りこちなくや侍らんとの給はせ けれは殿をかしからせ給てさら也何かはと仰の有け れはうれしき事にこそとて御所の東の山きは の滝の落て誠に面白き所に石上に西向になん 手を合ていまそかりけるかけに其ままにてやかて 息気絶てけり紫の雲上に覆ひたえなる香御/k69r 所にみちてそ侍りける人々集ておかみける也其形 体を移し留て同石に居へ給へりける今に侍りかた ひらのかたの落たるをきてこもとゆふ物を後に引かけ 給へる姿也ころは十二月三日とそ殊に哀に侍るかな多 の財宝を皆取捨そこはくの田薗をさなからもて 離て賤きさまにやつれ給て知しらぬ家共に入 居て袖をひろけ給けんさすか人も岩木ならね は見る目もさらにかきくらされてこそ侍けめさそ らへ出て後は又も旧里に帰り給はさりけるもかし こくそ侍る又世を捨てもすみなれし所しれる/k69l さかひなとにては袂をひろくる業はいかにも難有か むめるにとそれさへすみて覚侍り無何物語にて其 事となく日を送り給けんは外の有様は物さはかしき に似たれとも内の心はすみ渡て侍りけり大隠は 朝市にありと云是ならんと覚て侍り/k70r