大和物語 ====== 第65段 南院の五郎三河守にてありける承香殿にありける伊与の御を・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 南院((光孝天皇皇子是忠親王))の五郎((不明。底本「五」の下に「郎イ」と傍注))、三河守にてありける、承香殿にありける伊与の御((「伊予の御」か))を懸想(けさう)じけり。 「来む」と言ひければ、「御息所の御もとに、内へなん参る」と言ひおこせたりければ、   玉すだれうちとかくるはいとどしく影は見せじと思ひなりけり と言へりけり。 また、   歎きのみしげき深山(みやま)のほととぎす木(こ)隠れ居ても音(ね)をのみぞ鳴く など言ひけり。 かくて、来たりけるを、「今は帰りね」と、やらひければ、   死ねとてやとりもあらずはやらはるるいといきがたき心地こそすれ 返事をかしかりけれど、え聞かず。 また、雪の降る夜、来たりけるを、もの言ひて、「夜更けぬ。帰り給ひね」と言ひければ、帰りけるほどに、雪のいみじく降りければ、え行かで返りけるほどに、戸をさして開けざりければ、   われはさは雪降る空に消えねとや立ち返れども開けぬ板戸(いたど)とは となん、言ひて居たりける。 「かく歌も詠み、あはれに言ひ居たれば、『いかにせまし』と思ひて覗きて見れば、顔こそなほいとにくげなりしか」となん、語りしとか。 ===== 翻刻 ===== 式部卿是忠親王延喜二年式部卿廿年薨此宮子歟 南院の五(郎イ)参川守にてありける承香殿 にありける伊与のこをけさうしけり こむといひけれは宮す所の御もとに内え なんまいるといひをこせたりけれは たますたれうちとかくるはいととしく かけはみせしとおもひなりけり といへりけりまた/d32l なけきのみしけきみやまのほとと きすこかくれゐてもねをのみそなく なといひけりかくてきたりけるを いまはかへりねとやらひけれは しねとてやとりもあらすはやらは るるいといきかたき心ちこそすれ 返事をかしかりけれとえきかす又雪 のふるよきたりけるを物いひて夜 ふけぬかへり給えねといひけれはかへり けるほとにゆきのいみしくふりけれは えいかてかえりけるほとにとをさしてあけさりけれは/d33r 我はさはゆきふるそらにきえねと やたちかえれともあけぬいたとは となんいひてゐたりけるかくうたも よみあはれにいひゐたれはいかにせまし とおもひてのそきてみれはかほこそ猶 いとにくけなりしかとなんかたりし とか/d33l