平中物語
また、男、いささか人に言はれ、騒がるることありけり。そのこと、いとものはかなき虚言(そらご)とを、あだめける人の作り出でて言へるなりけり。
さりければ、「かう、心憂きこと」と思ひなぐさめがてら、「心をやらむ」と思ひて、津の国の方へぞ行きける。
忍びて知る人のもとに、「かうてなむ罷(まか)る。憂きことなど、なぐさみやする」と言へりければ、
世の憂きを思ひながすの浜ならばわれさへともに行くべきものを
とある返し。
憂きことにいかで聞かじと祓へつつ違(ちが)へながすの浜ぞいざかし
とて去にけり。
行き着きて、長洲の浜に出でて、網引かせなど遊びけるに、うらうらと春なりければ、海、いとのどかになりて、夕暮れになるままに、いつの間にか思ひけむ、憂かりし京のみ恋しくなりゆきければ、思ひながめつつ、心の内に言はれける。
はるばると見ゆる海辺をながむれば涙ぞ袖の潮と満ちける1)
とぞ、ながめ暮しける。
さて、その朝(あした)に、「さなむありし」と文(ふみ)に書きて、京の2)かの罷り申しせし人のもとに言ひたりける。女、
渚なる袖まで潮は満ち来(く)とも葦火(あしび)焚く屋しあれば干(ひ)ぬらむ
などなむ、言ひおこせたりける。
さりければ、久しくも長居で、帰り来にけり。
すみけりとおもひてたえにけるまた男 いささか人にいはれさはかるることありけり そのこといとものはかなきそらことをあた めける人のつくりいてていへるなりけり さりけれはかう心うきことと思ひなくさめ かてら心をやらむとおもひてつの国のかたへ そいきけるしのひてしる人のもとにかうて なむまかるうき事なとなくさみやする といへりけれは 世のうきをおもひなかすのはまならは 我さへともにゆくへきものを/51ウ
とあるかへし うきことにいかてきかしとはらへつつち かへなかすのはまそいさかし とていにけりいきつきてなかすのはまに いててあみひかせなとあそひけるにうらうらと 春なりけれはうみいとのとかになりて ゆふくれになるままにいつのまにかおもひけ むうかりし京のみこひしくなりゆきけ れはおもひなかめつつ心のうちにいはれける はるはるとみゆるうみへをなかんれはなみ たそそてのしほとみちけな/52オ
とそなかめくらしけるさてそのあした にさなんありしとふみにかきて京かのまかり まうしせし人のもとにいひたりける女 なきさなるそてまてしほはみちくとも あしひたくやしあれはひぬらんなと なんいひをこせたりけるさりけれはひさ しくもなかゐてかへりきにけりさてこの男/52ウ