今物語
下毛野武正といひける随身の、関白殿の北の対(たひ)の後ろを、まことにゆゆしげに通りけるに、局の雑仕(ざうし)、「あなゆゆし。『鳩吹く秋』とこそ思ひ参らせすれ」と言ひたりければ、「つひふされ」1)と言ひてけり。女、心憂げにて隠れにけり。
随身所にて、秦兼弘といふ随身に会ひて、「北の対の女の童(わらはべ)に、さんざんに罵(の)られたりつる」と言ひければ、「いかやうに罵られつるぞ」と問はれて、「『鳩吹く秋』とこそ思へ」と言ふに、兼弘は兼方の孫にて、兼久が子なりければ、かやうのこと、心得たる者にて、「口惜しきこと、のたまひけるかな。府生殿を思ひかけて、言ひけるにこそ。
深山(みやま)出でて鳩吹く秋の夕暮はしばしと人を言はぬばかりぞ
といふ歌の心なるべし。『しばし止まり給へ』と言ひけるにこそ。無下に色なく、いかに罵り給ひけるぞ」と言ひければ、「いでいで、さては色直して参らせむ」とて、ありつる局の下口(しもくち)に行きて、「もの承らむ。武正、鳩吹く秋ぞ、ようよう」と言ひ立てりける。いとをかしかりけり。
下毛野武正といひける随身の関白殿の北のたひのうし ろをまことにゆゆしけにとをりけるにつほねのさうし/s26l
あなゆゆしはとふく秋とこそおもひまいらせすれといひ たりけれはつひふされといひてけり女心う気にてかくれに けり随身所にて秦兼弘といふ随身にあひて北のたいの めのわらはへにさんさんにのられたりつるといひけれはいかやうに のられつるそととはれてはとふく秋とこそおもへといふに 兼弘は兼方の孫にてかねひさか子なりけれはかやうの事心 えたるものにてくちをしき事のたまひけるかな府生殿を おもひかけていひけるにこそ み山いててはとふく秋の夕くれはしはしと人をいはぬはかりそ といふ哥の心なるへししはしとまりたまへといひけるにこそ無 下に色なくいかにのり給けるそといひけれはいていてさては色 なおしてまいらせむとてありつるつほねのしも口に行て物うけたま はらむたけまさはとふく秋そようようといひたてりけるいとおかし/s27r
かりけり/s27l