十訓抄 第九 懇望を停むべき事
仁和寺の大御室1)の御時、成就院僧正2)のいまだ阿闍梨と申しけるころ、白河の3)九重御塔供養4)ありけり。
御室、「今度の賞あらば、必ず譲らむ」と御約束ありければ、かしこまり申し給ふほどに、思ひのごとく供養とげられて、賞行はるる時になりて、京極大殿5)の御子息、阿闍梨にて、御弟子にて候ひ給ひけるに、大殿、御対面のついでに、「今度の賞は小法師にぞ給はり侍りぬ」と、かねてより悦び申し給ひけれは、仰せられやるべきかたなくて、法眼になり給ひにけり。
御室は、「かの阿闍梨、いかに『くちをし』と思ふらむ」と、胸ふさがりて思しめしけるに、その日、ふつと見えざりければ、「さるらむ。もし修行に出でたるか。また、うらめしさのあまりにや」と思しめし乱れたるに、日高くなりて、御前に出でたりけるに、あやしく思しめして、「いづくへ行かれたりつるぞや」と仰せられければ、「新法眼の御悦びにまかり侍る」とうち聞こえて、つゆもうらみたる気色なかりけり。
御室、うれしくもあはれに思しめしければ、今度こそ越えられにけれども、次々の勧賞、あまた譲りて、僧正までなりて、鳥羽院の御時は、生き仏と思しめしければ、世をわがままにして、「法師関白」とまでいはれ給ひけり。
いみじかりける人なり。
一仁和寺大室御時成就院僧正ノイマタ阿闍梨ト申ケ ル皆河ノ九重御塔養供有ケリ、御室今度ノ賞アラハ、 必譲ラムト御約束有ケレハ、畏申給ホトニ、思ノ如ク供 養トケラレテ、賞ヲコナハルル時ニナリテ、京極大殿ノ/k17
御子息阿闍梨ニテ御弟子ニテ候給ケルニ、大殿御対 面ノ次ニ、今度ノ賞ハ小法師ニソ給ハリ侍ヌト、兼テ ヨリ悦申給ケレハ、仰ラレヤルヘキ方ナクテ、法眼ニ成給 ニケリ、御室ハ彼阿闍梨イカニ口惜ト思ラムト、胸フサカ リテ思食ケルニ、其日フツトミエサリケレハ、サルラム若修 行ニ出タルカ、亦恨メシサノアマリニヤト思召乱レタルニ、 日高クナリテ御前ニ出タリケルニ、アヤシク思食テ、イツク ヘユカレタリツルソヤト仰ラレケレハ、新法眼ノ御悦ニマカ リ侍ルトウチキコエテ、ツユモ恨タル気色ナカリケリ、 御室ウレシクモ哀ニ思食ケレハ、今度コソ越ラレニケレト/k18
モ、次々ノ勧賞アマタ譲リテ僧正マテナリテ鳥羽 院御時ハ、イキ仏ト思召ケレハ、世ヲ我ママニシテ、法師関白 トマテ云レ給ケリ、イミシカリケル人也、/k19