目次

三宝絵詞

上巻 3 忍辱波羅蜜

校訂本文

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菩薩は世々(せぜ)に忍辱波羅蜜を行ふ。その心に思はく、「もし忍ぶる心を習はずして、ことに触れて嗔(いか)り恨(うら)みば、うるはしく1)柔らかなる形をえじ。忍び難きをよくく忍ぶ。荒き辞(ことば)に謗(そし)り詈のらるるとも、『この音(こゑ)は谷の内の響きの如し』と思ひ、杖・刀に打ち割(さ)かるとも、『この身は水の上の沫(あわ)の如し』と思ふ。

忍辱仙人(にんにくせんにん)と云ふ人ありき。城(みやこ)の辺(ほと)りの林の中に住む。時に国王あり。歌利王(かりわう)と云ふ。あまたの女を共に引き将(ゐ)て、出でて林の中に遊ぶ。王の休み睡(ねぶ)れる程に、諸(もろもろ)の女、花を見るとて、林に交りて遊び廻(めぐ)る。遥かに仙のあるを見て、その前に集り居ぬ。仙人、法を説きて、世を厭(いと)ひ離るべき心を説き教ふ。

王、睡り寤(さ)めて、女を求むるに見えず。「誰(たれ)か将(ゐ)ていぬるぞ」と嗔(いか)りて、大刀(たち)を抜きて行き求む。遥かに仙人のもとに集り居たるを見て、すなはち来たりて、大きに嗔(いか)りて、問ひて云はく、「汝は何人(なにびと)ぞ」。答へて云はく、「われは仙人なり」。王また問ふ、「何わざをかする」と。答ふ、「忍辱(にんにく)の道を行ふ」と。王の思はく、「わが嗔(いか)れる皃(かほ)を見て、『忍ぶる心を行ふ』と云ふなめり」とて、また問ふ、「汝は色界無色界の道をば行ひ得たりや」と。仙人答ふ、「皆得ず」と。王いよいよ2)嗔りて云はく、「汝はいまだ欲界の心を離れざりけり。いかでか心に任せて、わが諸(もろもろ)の女をば見るべき」と責むるに、「われはただ忍辱を行ふ人なり」とのみ答ふ。

王の云はく、「汝、さらば一つの臂(ひぢ)を延(の)べよ」と。仙人、臂を延べたるに、王、大刀(たち)を持ちて切り落しつ。「汝は誰ぞ」と問ふに、「われはこれ能(よ)く忍ぶ人なり」と答ふ。また一つの臂を延べさせて切りつ。「能く忍ぶやいなや」と問ふに、「能く忍ぶ」と答ふ。また、二つの足、二つの耳、鼻を切て、度毎(たびごと)に問ふに、「皆前(さき)の如し」と答ふ。

王、仙人の身の多く土に散れるるを見て、嗔(いか)りの心寤(さ)めぬ。仙人の云はく、「などかまた切らず成りぬる。たとひ割(さ)き摧(くだ)かむこと芥子種(なたね)の如く、塵(ちり)の如くに成すとも、一念も嗔(いか)り恨(うら)むることを成すべからず」と云ひて、すなはち誓ひて云はく、「願はくは、王、今日嗔(いか)れる心を以て、わが身を以て七つに分かちて、七つの疵(きず)を成すが如く、われ後に仏に成らむに、慈しびの心を以て、先づ汝を度(わた)して、七種(ななくさ)の道を行ひ、七随眠(しちずいめん)を断たしめむ」と云ひき。

身を切らるるに、恨みなかりしかば、これを忍辱波羅蜜満つるとせり。昔の忍辱仙人と云ふは今の釈迦如来なり。『大論』に見えたり。

絵有り。

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翻刻

菩薩ハ世々ニ忍辱波羅蜜ヲ行フ其心ニ思ハク若シ忍フル心ヲ/n1-14l・e1-11l

https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/14

不習シテ事ニ触レテ嗔リ恨ミハ美ルシク柔ハラカナル形ヲ不得シ忍ヒ
難ヲ能ク忍フ荒キ辞ハニ謗リ被詈ルトモ此音ハ谷ノ内ノ響ノ
如シト思ヒ杖刀ナニ打チ割ルトモ此身ハ水ノ上ノ沫ノ如シト思フ忍辱
仙人ト云人有キ城コノ辺リノ林ノ中ニ住ム時ニ国王有リ歌利王
ト云フ数タノ女ヲ共ニ引キ将テ出テ林ノ中ニ遊フ王ノ休ミ
睡レル程ニ諸ノ女花ヲ見ルトテ林ニ交リテ遊ヒ廻クル遥ニ
仙ノ有ルヲ見テ其ノ前ニ集リ居ヌ仙人法ヲ説テ世ヲ厭ヒ
離ルヘキ心ヲ説キ教フ王睡リ寤メテ女ヲ求ルニ不見エス誰レカ/n1-15r・e1-12r
将テ伊奴留曽止嗔リテ大刀チヲ抜キテ行キ求ム遥ニ仙
人ノ許ニ集リ居タルヲ見テ即チ来テ大キニ嗔リテ問ヒテ云ク
汝ハ何ニ人ソ答ヘテ云ク我ハ仙人也リ王又問フ何ニ態サヲカ
為ルト答フ忍辱ノ道ヲ行フト王ノ思ハク我カ嗔レル皃ヲ見
テ忍フル心ヲ行フト云ナメリトテ又問フ汝ハ色界无色界ノ道ヲハ
行ヒ得タリヤト仙人答フ皆不得スト王ヨ嗔リテ云ク汝ハ未
欲界ノ心ヲ離レサリケリ何カテカ心ニ任テ我カ諸ノ女ナヲハ見ル可
キト責ムルニ我ハ只タ忍辱ヲ行フ人也リトノミ答フ王ノ云
ク汝チ佐良者一ツノ臂ヲ延ヘヨト仙人臂ヲ延ヘタルニ/n1-15l・e1-12l

https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/15

王大刀チヲ持テ切リ落シツ汝ハ誰レソト問フニ我レハ是レ能ク
忍フ人也リト答フ又一ツノ臂ヲ延ヘサセテ切リツ能ク忍ヤ不
ヤト問フニ能ク忍フト答フ又二ツノ足シ二ツノ耳ミ鼻ヲ
切テ度ヒ毎ニ問フニ皆前キノ如シト答フ王仙人ノ身ノ
多ク土ニ散レルルヲ見テ嗔ノ心寤メヌ仙人ノ云ク何トカ又
不切ラス成ヌル設ヒ割キ摧タカムコト芥子タネノ如ク塵ノ如クニ
成ストモ一念モ嗔リ恨ムルコトヲ不可成ト云テ即誓ヒテ云ク
願ハ王今日嗔レル心ヲ以テ我カ身ヲ以テ七ニ分チテ七ツノ
疵スヲ成スカ如ク我レ後ニ仏ニ成ラムニ慈ノ心ヲ以テ先ツ/n1-16r・e1-13r
汝ヲ度タシテ七種ノ道ヲ行ヒ七随眠ヲ断タシメムト云ヒキ身ヲ
切ラルルニ恨ミ无リシカハ是ヲ忍辱波羅蜜満ルト為リ昔ノ
忍辱仙人ト云ハ今ノ尺迦如来也大論ニ見タリ有絵/n1-16l・e1-13l

https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/16

1)
「うるはしく」は底本「美ルシク」。文脈により訂正。
2)
「王いよいよ」は底本「王よ」。前田家本「王愈(いよいよ)」により訂正。