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三宝絵詞

上巻 4 精進波羅蜜

校訂本文

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菩薩は世々(せぜ)に精進波羅蜜(しやうじんはらみつ)を行ふ。その心に思はく、「もし励み勤めずして、常に休み怠ることをなさば、生死(しやうじ)の家を離れずして、菩提の道に向かひがたかるべし」と念(おも)ひて、諸(もろもろ)の念(おも)ひ立ちぬることに、怠り捨つることなし。

火を切るに、息1)を休めつれば、火を得るにあたはず。水を泳ぐに、手を動さねば水を渡ることあはたず。励む心もし怠りぬれば、求むること成りがたきもまたかくのごとし。

昔、波羅奈国(はらなこく)の王の御子ありき。大施太子(だいせたいし)と名づけき。宮を出でて遊ぶ時に、田を作る者の鋤(すき)をもつて土を掘るに、烏(からす)集まりて虫を噉(は)むを見る。また糸を紡(つも)ぎ、絹を織り、牛を屠(ほふ)り、羊を剥ぎ、鳥を取り、魚を釣る者を 見る。供の人に問ふに、「着物(きもの)食ひ物のためにすることなり」と白(まう)すに、太子悲しびを生(な)して、宮に還りて、王に白(まう)して倉を開く。しばしは珎(たから)を出だして、貧しき民に賜ふ。大臣謗(そし)りを生(な)す。

太子、王に白(まう)す、「われ聞く、海の中に如意珠あるなり。こころみに行きて求めむ」と。王、驚きて答ふ、「国はこれ汝が国なり。珎(たから)は皆汝が珎なり。何の乏しきことあればか、海に行きて求むべき。また毒の竜、大きなる魚、荒き風、高き波に、往く者は千万なれど、還る者は一人二人なり。免すべからず」と。太子、王の前に臥しぬ。「このこと免されずは、つひに起きじ。ここにして死なむ」と云ふ。

王と后(きさき)と誘(こしら)へ勧むるに、つひに物の食はずして、七日起きず。后、泣きて白(まう)さく、「太子の心動かしがたし。今日、前にして死なむを見むよりは、なほ免してたまさかにも還りもや来ると憑(たの)み待たむ」と云ふ。王、これに随ひて、涙を流して免しつ。

国に一人の翁あり。よく海の道を知れり。年八十に成りて、二つの目、共に盲(めし)ひたり。王、みづから往きて、「太子の供に往け」と語らふ。翁、泣きて白(まう)す、「海に往く者は、全く還ことかたし。この仰せ忍びがたし。死なむ所まで候らはむ」と云ふ。

太子、船をよそひて乗りぬ。五百の商人(あきびと)、「共に往かむ」と云ふ。七つの鉄の鏁(くさり)をもつて、船を繋げり。太子、朝(あした)ごとに鼓を打ちて云はく、「もし留らむと念(おも)はむ者は、これより還りね」と云ひて、一日(ひとひ)に一つの綱(つな)を解けり。風を待ちて、帆を上げて、珎(たから)の山に着きぬ。船より下りて、商人らに云はく、「この珎を取りて船に乗りて還りね」と云ひて、船を留め、人をとめつ。

これより、翁ともろともに徒歩(かち)より往けば、七日、水、膝に立つ。また七日往けば、水、頸(くび)に至る。また七日、浮びて渡りて浜に着きぬ。翁の云はく、「銀の沙(いさご)の浜に来にけり。遥に見よ、辰巳の方に銀の山見ゆ」と。「それをさして行け」と云ふ。

至りてまた遥かに行きて、金の沙の浜あり。翁、飢(つか)れ弱くして、倒れ臥して云はく、「われ、ここにして死ぬべし。これより東に七日行けば、青き蓮(はちす)の花の所あり。また七日行かば、紅の蓮あり。それを過ぎてなほ行き給はば、龍王の宮には至り給ひなむ」と教へて死ぬ。

太子、悲しび泣きて、云ひしがごとく独り行く。蓮(はちす)の所を見れば、青き毒蛇ありて、花の茎を纏(まと)へり。目を瞋(いか)らして見れども、太子を犯さず。王の宮に至りて見れば、毒の竜、堀(ほりき)を守り、玉の女、門(かど)を守る。

太子、消息を云はしむれば、竜王、驚き奇(あや)しむ。「おぼろげの人にあらずは、ここに来たりがたかるべし」とて、みづから出でて迎へて、財(たから)の床にすゑつ。「遠く来たれる志、何を求むるぞ」と問へば、太子の云はく。「閻浮提(えんぶだい)の人、貧しきによりて苦しび多し。王の左の耳の中の玉を乞はむがために来たれるなり」と云へば、竜王の云はく、「七日ここに留まりて、わが供養を受け給へ。その後に奉らむ」と云ふ。太子、七日を過ぐして玉を得つ。竜神、空より送りて、すなはち国の岸に至りぬ。

時に諸(もろもろ)の龍、宮に集まりて歎きて云はく、「玉は海の内の重き宝、身の上の貴き厳(かざり)なり。なほ取り返してよかるべし」と定む。海の神、人に成りて、太子の前に来たりて云はく、「聴く、君、世に希(まれ)なる玉を得たりと。われに見せよ」と云ふ。太子、出だして見するほどに、また奪ひて海に入りぬ。

太子悔い歎きて、誓ひて云はく、「汝、もし玉を返さずは、この海を汲み干さむ」と云ふ。時に海の神出で来て、笑ひて云はく、「汝は太(いと)愚かなる人かな。空の日をば落しもしてむ、早き風をば止めもしてむ、この海の水をばいどこ2)にか汲み移さむとする」と云ふ。太子、答へて云はく、「恩愛の断がたきだに、われなほ断たむと欲(おも)ふ。生死(しやうじ)の尽くしがたきだにたに、われなほ尽さむと欲(おも)ふ。いはんや、海の水は多かれど限りあり。もしこの世に汲み尽さずは、世々(よよ)を経ても必ず汲み干さむ」と誓ひて貝柄(かいがら)を取りて、「海の水を汲まむ」と誓ふ心のまことなるに、天人、悲しび憐れびて、皆来たりて共に汲む。遠く鉄囲(てちゐ)の山3)の外に置き、天(あま)の衣(ころも)の袖の内に裹(つつ)む。太子、一度二度(ひとたびふたたび)汲むに、海の水、十分が八分失せぬ。竜王、さわぎあわてて出で来て、「わがすみか、すでに空しくなりぬべし」と詫(わ)びして、玉を返しつ。

太子、宮に返りて、月の十五日の朝(あした)に、香を焼き、幡(はた)を懸けて、玉を幢(ほこ)の上に置きて、香炉を取りて、玉を拝みて云はく、「われ、衆生のために苦しびを忍びて玉を得たり。願はくは、諸(もろもろ)の財(たから)を雨(ふ)りて、普(あまね)く人の願を満てよ」と云ふに随(したが)ひて、和(やはら)かなる風吹きて、空の雲を掃ひ、細かき雨を灑(そそ)きて、土の塵を納(おさ)む。普く諸の財(たから)雨(ふ)りて積もれること膝に至る。閻浮提の内に財の雨(ふ)らぬ所なし。

苦しびを堪(た)へ、心を励まして誓を発(おこ)し、海を汲みしかば、これ精進波羅蜜を満つるとなり。昔、大施太子と云ひしは、今の釈迦如来なり。『六度集経』・『報恩経』等に見えたり。

絵あり。

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翻刻

菩薩ハ世々ニ精進波羅蜜ヲ行フ其ノ心ニ思ハク若シハケミ不
勤シテ常ニ休ミ怠タルコトヲ成サハ生死ノ家ヲ不離シテ菩提ノ
道ニ向ヒ難カルヘシト念テ諸ノ念ヒ立ヌル事ニ怠リ捨ル
事ナシ火ヲ切ルニ気キヲ休メツレハ火ヲ得ルニ不能ス水
ヲオヨクニ手ヲ動サネハ水ヲ度ルコト不能ス励ケム心若シ怠リヌレハ/n1-16l・e1-13l

https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/16

求ル事成リ難キモ又如此シ昔波羅奈国ノ王ノ御子有キ
大施太子ト名ケキ宮ヲ出テ遊フ時ニ田ヲ作ル者ノ鋤キヲ
以テ土ヲホルニ烏ス集テ虫ヲ噉ムヲ見ル又糸ヲツモキ
絹ヲ織リ牛ヲ屠リ羊ヲハキ鳥ヲ取リ魚ヲ釣ル者ヲ
見ル共ノ人ニ問フニ着キ物ノ食ヒ物ノ為ニ為ル事也ト白ニ
太子悲ヲ生ナシテ宮ニ還テ王ニ白シテ倉ヲ開ク数シハ珎ヲ
出シテ貧キ民ニ賜フ大臣謗リヲ生ス太子王ニ白ス我レ
聞ク海ミノ中ニ如意珠有ナリ心見ニ行テ求ムト王/n1-17r・e1-14r
驚テ答フ国ハ是汝国ナリ珎ラハ皆汝カ珎ナリ何ニノ乏キ
事有レハカ海ニ行テ可求キ又毒ノ龍大キナル魚荒キ風
高キ波ニ往ク者ノハ千万ナレト還ル者ハ一リ二リ也不可免スト
太子王ノ前ニ臥シヌ此事不被免スハ終ニ不起シ爰ニシテ
死ナムト云フ王ト后ト誘ヘ勧ムルニ終ヒニ物ノ不食シテ七日不
起キス后キ泣テ白ク太子ノ心動カシ難シ今日フ前ニシテ死
ナムヲ見ムヨリハ猶免ルシテ太末佐加ニモ還リモヤ来ルト憑
ミ待タムト云フ王是ニ随テ涙ヲ流シテ免ルシツ国ニ一ノ翁/n1-17l・e1-14l

https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/17

有能ク海ノ道ヲ知レリ年八十ニ成テ二ツノ目共ニ盲ヒタリ
王自カラ往キテ太子ノ共ニ往ケト語ラフ翁泣キテ白ス海ニ往
ク者ノハ全ク還コト難シ此ノ仰忍ヒ難シ死ナム所マテ候ラハムト
云フ太子船ヲ与曽比テ乗リヌ五百ノ商キ人共ニ往ムト云フ
七ツノ鉄ノ鏁リヲ以テ船ヲ繋ナケリ太子朝タ毎ニ鼓ヲ打テ云
ク若シ留ラムト念ハム者ハ是レ従リ還リネト云ヒテ一日ヒニ一ツノ
綱ナヲ解リ風ヲ待テ帆ヲ上テ珎ノ山ニ着ヌ船ヨリ下テ商
人ラニ云ク此珎ヲ取テ船ニ乗テ還リネト云テ船ヲ留メ人ヲ/n1-18r・e1-15r
トメツ此従リ翁ト諸共ニ加知与利往ケハ七日水ツ膝ニ立ツ
又七日往ケハ水頸ニ至ル又七日浮ヒテ度テ浜ニ着キヌ
翁ノ云ク銀ノ沙ノ浜ニ木仁計利遥ニ見ヨ辰巳ノ方ニ銀ノ
山見ユト其ヲ差テ行ケト云フ至テ又遥ニ行テ金ノ沙ノ浜
有リ翁飢レ弱クシテ倒レ臥テ云ク我爰ニシテ可死シ是ヨリ
東ニ七日行ケハ青キ蓮ノ花ノ所有リ又七日行カハ紅ノ蓮
有リ其ヲ過テ猶行キ給ハハ龍王ノ宮ニハ至リ給ヒナムト教
テ死ヌ太子悲ヒ泣テ云シカ如ク独リ行ク蓮ノ所ヲ見レハ
青キ毒蛇有テ花ノ茎ヲ纏ヘリ目ヲ瞋ラシテ見レトモ太子ヲ不犯ス/n1-18l・e1-15l

https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/18

王ノ宮ニ至テ見レハ毒ノ龍堀キヲ守リ玉ノ女門ヲ守ル太子
消息ヲ云ハシムレハ龍王驚キ奇シム於保呂介ノ人ニ非スハ爰ニ
来リ難カル可シトテ自ラ出テ迎ヘテ財ノ床ニ居ヱツ遠ク来
レル志シ何ヲ求ムルソト問ヘハ太子ノ云ク閻浮提ノ人貧キニ依
テ苦シヒ多シ王ノ左ノ耳ノ中ノ玉ヲ乞ハムカ為ニ来レル也ト云ヘハ
龍王ノ云ク七日爰ニ留テ我カ供養ヲ受給ヘ其後ニ奉
ラムト云フ太子七日ヲ過シテ玉ヲ得ツ龍神空ヨリ送リテ
即国ノ岸ニ至ヌ時ニ諸ノ龍宮ニ集テ歎テ云ク玉ハ
海ノ内ノ重キ宝ラ身ノ上ノ貴キ厳リナリ猶取返シテ/n1-19r・e1-16r
吉カル可ト定ム海ノ神人ニ成テ太子ノ前ニ来テ云ク聴ク
君世ニ希レナル玉ヲ得タリト我ニ見ヨト云フ太子出シテ見スル
程ニ又奪テ海ニ入ヌ太子悔イ歎テ誓ヒテ云ク汝若シ
玉ヲ不返ハ此ノ海ヲ汲ミ干サムト云フ于時ニ海ノ神出来テ咲テ
云ク汝ハ太愚ナル人カナ空ノ日ヲハ落シモシテム早キ風ヲハ止メモシテム
此海ノ水ヲハ太己ニカ汲移サムト為ルト云フ太子答テ云ク
恩愛ノ難断タニ我レ猶欲断フ生死ノ難尽タニ我猶欲
尽フ況ヤ海ノ水ハ多カレト限有リ若シ此ノ世ニ汲ミ不尽ハ
世々ヲ経テモ必ス汲ミ干サムト誓ヒテ貝柄ヲ取テ海ノ/n1-19l・e1-16l

https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/19

水ヲ汲ムト誓フ心ノ実トナルニ天人悲ヒ憐ヒテ皆来テ共ニ汲
ム遠ク鉄囲ノ山ノ外ニ置キ天ノ衣モノ袖ノ内ニ裹ム太子
一ト度ヒ二タ度ヒ汲ニ海ノ水十分カ八分失ヌ龍王姦ワキ
阿和天々出来テ我カ居カ已ニ空ク成ヌ可ト詫シテ玉ヲ
返シツ太子宮ニ返テ月ノ十五日ノ朝ニ香ヲ焼キ幡ヲ懸テ
玉ヲ幢コノ上ニ置テ香炉ヲ取テ玉ヲ拝ミテ云ハク我衆生
ノ為ニ苦ヒヲ忍テ玉ヲ得タリ願ハ諸ノ財ヲ雨テ普ク
人ノ願ヲ満ヨト云フニ随テ和ナル風吹テ空ノ雲ヲ掃ヒ細キ
雨ヲ灑テ土ノ塵ヲ納サム普ク諸ノ財ラ雨テ積レル事/n1-20r・e1-17r
膝ニ至ル閻浮提ノ内ニ財ノ雨ラヌ所无シ苦シヒヲ堪ヘ
心ヲ励マシテ誓ヲ発シ海ヲ汲ミシカハ是精進波羅蜜ヲ満ルトナリ
昔大施太子ト云シハ今ノ尺迦如来也六度集経報恩
経等ニ見タリ有絵/n1-20l・e1-17l

https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/20

1)
「息」は底本表記「気キ」。
2)
「いどこ」は底本表記「太己」。「太」を「いと」、「己」を「こ(仮名)」と読む。
3)
鉄囲山