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三宝絵詞

上巻 6 般若波羅蜜

校訂本文

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菩薩は世々(せぜ)に常に般若波羅蜜を行ふ。その心に念(おも)はく、「もし覚(さと)り明(あき)らむる心なくは、常に愚かに暗かるべし。邪見の滋(しげ)き林に入りて、菩提の正しき道を迷ひなむ」と念(おも)ひて、貴き道を問ひ、深き覚りを習ふ。先の五つの波羅蜜は、目盲(めし)ひたる人の、道を知らぬがごとし。第六の波羅蜜は、目明らかなる人の、道を示すがごとし。先の五つの波羅蜜は、手足の身を助けたるがごとし。第六の波羅蜜は首(かうべ)の寿(いのち)を持(たも)てるがごとし。花1)の眼に依りて、よく炎2)の道に向かふ。花の首(かうべ)に依りて、法身の命を持(たも)つ。まさに知るべし、わが心に迷ひを離るれば、仏の位(くらゐ)顕(あらは)れなむとすること、木の目3)のもゆるを見て、春のきぬることを喜び、浜の沙(いさご)の平らかなるを見て、波の近きことを知るがごとく、菩薩もかくのごとし。もし花の深き覚(さと)りを見ば、まさに菩提の漸(やうや)く近付きぬると知るべし。

昔、大臣在りき。拘賓大臣(くひんだいじん)4)と云ひき。心ら明かに覚(さと)り遠し。国諍(くにあらそ)ひ在りし時に、閻浮提(えんぶだい)の大地を別けて等しく七分に成す。若干(そこばく)の大きなる国、小さき国、遠き村、近き村、数も知れぬ諸(もろもろ)の民をそらに皆覚(さと)り知りて、等しく七つに成して、よく国の諍(あらそ)ひを止めき。

覚り難きを明かに覚れりしを、般若波羅蜜を満つとせり。

昔の拘賓大臣は、今の釈迦如来なり。大論5)に見えたり。

絵あり。

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翻刻

菩薩ハ世々ニ常ニ般若波羅蜜ヲ行フ其心ニ念ハク若シ覚リ
明ラムル心无クハ常ニ愚カニ可暗シ邪見ノ滋キ林ニ入テ菩提ノ/n1-21l・e1-18l

https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/21

正シキ道ヲ迷ヒナムト念テ貴キ道ヲ問ヒ深キ覚リヲ習フ先キノ
五ノ波羅蜜ハ目盲ヒタル人ノ道ヲ不知ヌカ如シ第六ノ波羅蜜ハ
目明ラカナル人ノ道ヲ示スカ如シ先ノ五ノ波羅蜜ハ手足シノ
身ヲ助ケタルカ如シ第六ノ波羅蜜ハ首ヘノ寿ヲ持テルカ如シ
花ノ眼ニ依テ善ク炎ノ道ニ向フ花ノ首ヘニ依テ法身ノ命ヲ
持ツ正ニ知ルヘシ吾カ心ニ迷ヒヲ離ルレハ仏ノ位顕レナムトスルコト木ノ
目ノ毛由留ヲ見テ春ノ木奴留事ヲ喜ヒ浜ノ沙コノ平カ
ナルヲ見テ波ノ近キ事ヲ知ルカ如ク菩薩モ如此シ若シ花ノ/n1-22r・e1-19r
深キ覚リヲ見ハ正ニ菩提ノ漸ク近付ヌルト可知シ昔大臣
在キ拘賓大臣ト云キ心明カニ覚リ遠国諍ラソヒ在シ時ニ
閻浮提ノ大地ヲ別ケテ等シク七分ニ成ス若干ノ大ナル
国小サキ国遠キ村ラ近キ村ラ数モ不知ヌ諸ノ民ヲ空
ラニ皆覚リ知テ等シク七ツニ成シテ善ク国ノ諍ソヒヲ止メキ
覚リ難キヲ明カニ覚レリシヲ般若波羅蜜ヲ満ツト為リ昔ノ
拘賓大臣ハ今ノ尺迦如来也大論ニ見タリ有絵/n1-22l・e1-19l

https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/22

1)
般若。以下同じ。
2)
「菩提」の合字(ササ点菩提)の誤写か。前田家本「菩提」。現代思潮社古典文庫・岩波新大系は「涅槃」とする。
3)
4)
劬嬪陀波羅門大臣
5)
大智度論