目次

三宝絵詞

上巻 7 流水長者

校訂本文

<<PREV 『三宝絵詞』TOP NEXT>>

昔、長者ありき。名を流水(るすい)といふ1)。両(ふたり)の子、共に遊び見るに、諸(もろもろ)の鳥獣、皆一方(ひとかた)に赴きて飛び走るを見る。奇(あや)しびてその方(かた)に尋ね行きて見れば、一つの大きなる池あり。夜生の池2)と云ふ。その水、尽きなむとす。多くの魚あり。流水、これを悲しぶに、樹神(じゆしん)告げて云はく、「なんぢを流水と云ふ。水を与へて魚を生けよ」と云ふ。流水、驚きて、「魚の員(かず)幾つぞ」と問へば、樹神答へて、「十千あり」と云ふ。この池、日に爆(あぶ)られて、魚皆死なむとす。

流水、万(よろづ)の方に走り求むるに水なし。大きなる木に登りて、滋(しげ)き枝を折りて、かつ池の中に立て、冷(すず)しき景(かげ)を作りつ。また廻りて水の逃げむ方を尋ぬれば、遠く去りて、大きなる河あり。魚を取る人、水を落し去(の)けたり。たちまちにつくろひがたかるべし。

流水、走り返へりて、王の御許(おんもと)に行ききて、ことの由(よし)を申さしめて、「願はくは、二十の大象を給はりて、水を運びて、魚を生けむ」と申す。王、すなはち象を給ひつ。流水、両(ふたり)の子と共に、酒の家に尋ね行きつつ、皮の袋を借り集めつ。河に行きて、水を裹(つつ)みて、象に負はせて池に運ぶ。水、たちまちに本(もと)の如くに満ちぬ。

流水、池の堤(つつみ)を廻るに、魚随(したが)ひて廻り行く。奇(あやし)びて、「この魚は飢ゑに依りて、われに随ひて食ひ物を乞ふなめり」と思ひて、両(ふたり)の子に云ふ、「一人の子は象を取りて、いそぎて宅(いへ)に行け。父母より始めて、下(しも)の仕人(つかへびと)に至るまで、食ひ物をまづ取り集めて来たれ」と云ひて遣(や)りつ。すなはち行きて持て来たれり。あまねく池の内に散らして、諸(もろもろ)の魚皆飽きぬ。

また念(おも)はく、「すでに食ひ物を持ちて、魚の飢ゑを助けつ。また法の味を施して、後の身を導かむ」と思ひて、池中に下り立ちて、魚の為に法を説く。昔の僧の云ひし3)を聞きて、十二因縁の心を説き、また経に顕(あら)はせるを見て、宝髻如来(ほうけいによらい)の名を唱ふ。かくのごとくして、家に返りぬ。

後に十千の魚、同じ時に皆死ぬ。共に三十三天に生まれぬ。あひ語りて云はく、「われら、先の世に魚の身を受けたりけり。流水の、水を施し、食を与へ、法を説き、仏を唱へける力に依りて、この天に生まれたるなりけり。われら共に行きて、この恩を報いむ」と云ふ。

この時に、流水、夜、高き楼の上に寝(いね)たり。十千の天子来たりて、流水が臥せる四つの側(かたはら)に、各(おのおの)十千の瓔珞(やうらく)を置く。合はせて四十千なり。また天の花を雨(ふ)らせること、積もれる高さ膝に至る。また天の楽を唱ふるに、寝(いね)たる人、皆驚きぬ。流水、驚き惶(おそ)るる程に、天子返り去りぬ。空の中に光を放ち、国の内に花を散らせり。また、昔住みし池に行きて、多くの花を雨(ふ)らして返りぬ。

明くる朝(あした)に、国の王奇(あや)しび尋ね給ひて、流水を召して問ひ給ひ、使を遣はして、池を見せしめ給ひて、「明らかに、これ池の魚の天に生まれて恩を報いたるなりけり」と知りぬ。国の内の諸(もろもろ)の人、皆大きに貴びを成しき。

昔の流水は今の釈迦如来なり。最勝王経に見えたり。

<<PREV 『隆房集』TOP NEXT>>

翻刻

昔長者有キ両ノ子共ニ遊ヒ見ルニ諸ノ鳥獣皆一方タニ/n1-22l・e1-19l

https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/22

赴テ飛ビ走ルヲ見ル奇ヒテ其方タニ尋行テ見レハ
一ノ大ナル池有リ夜生ノ池ト云フ其水尽ナムトス多ノ
魚有リ流水是ヲ悲フニ樹神告テ云ク汝ヲ流水ト云フ
水ヲ与ヘテ魚ヲ生ケヨト云フ流水驚キテ魚ノ員幾ツソト
問ヘハ樹神答テ十千有ト云フ此池日ニ爆ラレテ魚皆死
ムトス流水万ツノ方ニ走リ求ルニ水无シ大ナル木ニ登テ滋
キ枝ヲ折テ且ツ池ノ中ニ立テ冷シキ景ヲ作ツ又廻テ
水ノ逃ケム方ヲ尋レハ遠ク去テ大ナル河有魚ヲ取ル人/n1-23r・e1-20r
水ヲ落シ去ケタリ忽チニ川久呂比加太加留ヘシ流水走リ返
テ王ノ御許ニ行キテ事ノ由ヲ令申メテ願ハ廿ノ大象ヲ給
ハリテ水ヲ運テ魚ヲ生ケムト申ス王則象ヲ給ヒツ流水両
タリノ子ト共ニさけの家ニ尋行ツツ皮ノ袋ヲ借リ集メツ河ニ
行キテ水ヲ裹ミテ象ニ負セテ池ニ運フ水忽ニ本ノ如クニ
満ヌ流水池ノ堤ミヲ廻クルニ魚随テ廻リ行ク奇ヒテ此ノ魚ハ
飢ニ依テ吾ニ随テ食ヒ物ヲ乞ナメリト思テ両ノ子ニ云フ一人
ノ子ハ象ヲ取テ怱キテ宅ニ行ケ父母ヨリ始メテ下モノ仕人ニ/n1-23l・e1-20l

https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/23

至マテ食ヒ物ヲ先ツ取集メテ来レト云ヒテ遣リツ則行
キテ持来レリ普ク池ノ内ニ散ラシテ諸ノ魚皆飽キヌ
又念ハク已ニ食ヒ物ヲ持テ魚ノ飢ヲ助ケツ又法ノ味ヲ
施シテ後ノ身ヲ導ト思テ池中ニ下リ立テ魚ノ為ニ法ヲ
説ク昔ノ僧ノ云シヒヲ聞キテ十二因縁ノ心ヲ説キ又経ニ
顕セルヲ見テ宝髻如来ノ名ヲ唱フ如是クシテ家ニ返ヌ後ニ
十千ノ魚同シ時ニ皆死ヌ共ニ卅三天ニ生レヌ相語テ云ク
吾等先ノ世ニ魚ノ身ヲ受タリケリ流水ノ水ヲ施シ食ヲ与ヘ/n1-24r・e1-21r
法ヲ説キ仏ヲ唱ヘケル力ニ依テ此ノ天ニ生レ多留ナリ介利我等
共ニ行テ此恩ヲ報ムト云フ此時ニ流水夜ル高キ楼ノ上ニ寝
タリ十千ノ天子来テ流水カ臥セル四ノ側ニ各ノ十千ノ玉玉ヲ
置ク合テ四十千也又天ノ花ヲ雨ル事積レル高サ膝ニ至ル
又天ノ楽ヲ唱ルニ寝タル人皆驚キヌ流水驚キ惶ル程ニ
天子返リ去リヌ空ノ中ニ光ヲ放チ国ノ内ニ花ヲ散セリ
又昔住シ池ニ行テ多ノ花ヲ雨テ返ヌ明ル朝ニ国ノ王奇ヒ
尋給ヒテ流水ヲ召シテ問ヒ給ヒ使ヲ遣ハシテ池ヲ令見メ
給テ明ラカニ是レ池ノ魚ノ天ニ生テ恩ヲ報タルナリケリト知ヌ/n1-24l・e1-21l

https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/24

国ノ内ノ諸ノ人皆大ニ貴ヒヲ成シキ昔ノ流水ハ今ノ
尺迦如来也最勝王経ニ見タリ/n1-25r・e1-22r

https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/25

1)
底本「名を流水といふ」なし。前田家本により補う。
2)
前田家本・最勝王経「野生池」
3)
「云ひし」は底本「云シヒ」。文脈により訂正。