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text:sanboe:ka_sanboe1-01

三宝絵詞

上巻 1 檀波羅蜜

校訂本文

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菩薩は世々(せぜ)に檀波羅蜜(だんはらみつ)を行ず。その心に念(おも)はく、「もし物を施す心を習ずは、常に貧しく、苦しき身を受くべし」。人を助くる力を備へ、仏に成る道を行はむと思ひて、己(おの)がある物をば、乞ふに随(したが)ひて与ふ。国・城・妻・子を施すこと、草木を捨てむよりも軽し。頭・目・手・足を与ふること、石・土(つちくれ)抛(な)げむよりも安し。いはんや、この外の宝は、一つも惜しむ心なし。

昔、国王いましき。尸毘王(しびわう)と云ひき。慈悲の心深くして、衆生を観ること子の如し。帝釈(たいしやく)1)、「その心を試みむ」と念(おも)ひて、毘首羯磨天(びしゆかつまてん)に語らひて云はく、「汝は鳩に成りて、逃げて王の懐(ふところ)に入れ。われは鷹に成りて、追ひて王の心を試みむ」と云ひて、各(おのおの)の成りぬ。

鳩来たりて王の脇に入る。鷹追ひて前の樹に居ぬ。「われに鳩を返し給へ」と乞ふ。王の云はく、「われ、衆生(しゆじやう)を救はむと念(おも)ふ誓ひあり。返すべからず」と云ふ。鷹の云く、「われも衆生にはあらずすやは。などか憐ればずして、今日の食ひ物をば奪ひ給ふ」と云ふ。

王、「鳩の命をば救はむ」と念ふ。「鷹の飢ゑをも助けむ」と念(おも)ひて、刀を取りて、自らの腂2)の肉を割(さ)くに、鷹の云はく、「鳩の重さと等しくして得む」と云ふ。王、斤(はかり)を以て繋(か)くるに、鳩の身はいよいよ重く、王の肉はいよいよよ軽し。また、二つの腂の肉を取りて加ふるに、なほ軽し。また二つの肘(ひぢ)、背中、すべ惣て一つ身ながらの肉を皆取りつるに、なほ軽し。

鷹の云はく、「肉は皆尽きぬめるに、鳩はなほ重し。または何(いづ)くの肉をか加へむ。早く鳩を返してよ」と責む。王の云はく、「さらに返すべからず」と云ひて、わが身ながら斤(はかり)に繋(か)けむとする時に、筋絶え、力尽きて、まろび倒れぬ。みづからわが心を責めて云はく、「この苦しびははなはだ少なし。地獄の苦しびは量りもなし。わが今解(さと)りあるだにも、なほこのことを愁へば、地獄の人の解(さと)りもなきは、ましてその苦しびを何(いか)にすらむ。われ、みづから誓ひを発(お)こして、『衆生を救はむ』と思ひにき。何に依りてか、かくばかりのことに痛み迷ひて、心弱くまろび落つるぞ」と。

「人来たりて、われを助けて推(お)し上げよ」と云ひて、また起き上がりぬ。手を以て、斤(はかり)の緒(を)にすがりて、力を発(おこ)して、強(し)ひて登り給ふに、その心定りて、悔ゆる念(おも)ひなし。時に大地六種(むくさ)に動け、空の上より花を雨(あめふ)る。大海に浪上(あが)り、枯れたる木に花敷(さ)きぬ。

天人、来たり讃めて云はく、「一つの小さき鳥の為にだに、重き身を惜まず、まこに菩薩なり。必ず早く仏に成りなむ」と云ふ。鳩、鷹に語らふ、「われら謬(あやま)りて菩薩の身を壊(やぶ)りつ。早く天の力を以て、王の疵(きず)を愈(いや)すべし」と云ふ。鷹、すなはち帝釈に成りて王に問ふ、「このこと、痛く苦しからむに、悔ゆる心あるか」と云ふ。王、答ふ、「深く喜ぶ心のみあり。さらに悔ゆる念(おも)ひなし」と云ふ。帝釈の云はく、「このこと注(しる)しなし。誰かまことと念(おも)ふべき」と云ふ。王、すなはち、誓ひて3)云はく、「今、わが身を捨て、深く仏の道を求むるに、心もし偽はらずして、こともし虚(むな)しかるまじくは、願はくは、わが身をして、たちまちに本(もと)の如く成らしめよ」と云ふ。帝尺、また天の薬を灑(そそ)きて、身の肉、にはかに満たす。身の疵、皆愈(い)えぬ。本の形の如し。諸(もろもろ)の人、これを見て、皆大きに喜び貴(たふと)びき。これより後に施す心、いよいよ広し。

みづからの命を惜まざりし、これを檀波羅蜜を満つるとせり。昔の尸毘王は、今の釈迦如来なり。『六度集経』・『智度論4)』等に見えたり。

絵有り。

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翻刻

菩薩は世々に檀波羅蜜を行す其の心に念はく若し物を施こす心を
不習すは常に貧しく苦しき身を受へし人を助くる力らを備へ仏に成る
道を行なはむと思て己か有る物をは乞に随て与ふ国城妻子を施こす
事草木を捨むよりも軽し頭目手足を与ふる事石土くれ抛けむ従も安し
況や此外の宝は一つも惜む心无し昔国王伊坐き尸毘王と云き/n1-10l・e1-8l

https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/10

慈悲の心深くして衆生を観る事子の如し帝尺其心を試みむと念ひて
毘首羯磨天に語ひて云く汝は鳩に成て逃て王の懐ころに入れ我は
鷹に成て追ひて王の心を試みむと云ひて各の成ぬ鳩来て王の脇に
入る鷹追ひて前の樹に居ぬ我に鳩を返し給へと乞ふ王の云く
我れ衆生を救はむと念ふ誓ひ有り不可返すと云ふ鷹の云く我も
衆生には非すやは奈止加憐はすして今日の食ひ物をは奪ひ給ふと云ふ
王鳩の命をは救はむと念ふ鷹の飢をも助けむと念ひて刀を取て
自らの腂の肉を割に鷹の云く鳩の重さと等くして得むと云ふ/n1-11r・e1-9r
王斤を以て繋るに鳩の身は弥よ重く王の肉は弥よ軽し又二の腂の
肉を取て加ふるに猶軽し又二の肘ち背か惣て乍一身らの肉を皆取
つるに猶軽し鷹の云く肉は皆尽ぬめるに鳩は猶重し又は何くの肉をか
加へむ早く鳩を返してよと責む王の云く更に不可返と云て我か身
乍ら斤に繋むとする時に筋絶え力尽て丸ひ倒れぬ自から我心を
責て云く此苦るしひは甚た少なし地獄の苦るしひは量も无し我か
今解り有たにも猶此事を愁へは地獄の人の解も无きは増
して其苦しひを何にすらむ我自から誓を発て衆生を救はむと思ひにき
何に依りてか加久許の事に痛み迷て心弱はく丸ひ落つるそと/n1-11l・e1-9l

https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/11

人来りて我を助けて推し上よと云ひて又起き上かりぬ手を以て斤
の緒に須加利て力を発して強て登り給に其の心定りて悔る
念ひ无し時に大地六種さに動け空の上より花を雨る大海に
浪上かり枯たる木に花敷きぬ天人来り讃めて云く一つの小さき
鳥の為にたに重き身を不惜す実とに菩薩なり必す早く仏に成
りなむと云ふ鳩鷹に語ふ我等謬まりて菩薩の身を壊りつ早く天の力
を以て王の疵を愈すへしと云ふ鷹即ち帝尺に成りて王に問ふ
此の事痛く苦るしからむに悔る心有かと云ふ王答ふ深く喜ふ心
のみ有更に悔る念ひ无と云ふ帝尺の云はく此事注し无し/n1-12r・e1-10r
誰か実と可念きと云ふ王即ち誓□云く今我か身を捨て
深く仏の道を求るに心若し偽はらすして事若虚かるましくは願くは我か
身をして忽に本の如く成らしめよと云ふ帝尺又天の薬を灑て身の
肉俄かに満す身の疵す皆愈ぬ本の形の如し諸の人是を見て
皆大きに喜こひ貴とひき是より後に施こす心弥よ広し自からの命を
不惜さりし是を檀波羅蜜を満るとせり昔の尸毘王は今の尺迦如来
也六度集経智度論等に見たり有絵/n1-12l・e1-10l

https://dl.ndl.go.jp/pid/1145957/1/12

1)
帝釈天
2)
底本ママ。『大智度論』は「股」。
3)
「誓ひて」は底本「ひて」欠損。諸本により補う。
4)
大智度論
text/sanboe/ka_sanboe1-01.txt · 最終更新: 2024/05/25 11:44 by Satoshi Nakagawa